差別と排除を「神事」と言い換えるのはちとマズくないかい。

新型インフルエンザに関する騒動について書いたこの記事なのだが、

 新型インフルエンザというケガレを持ち込んだタタリ神に対して、「お祭り」を行うことで鎮まってもらう、或いは脅したりすかしたりして退散させる。この場合、お祭りの中心である依代となるのは感染者であり、祭事の中心となるのは依代たる感染者に関わる学校などの「場所」となる。

 京都の祇園祭が鉾という武器の威力と別の神様の力を持って疫病を鎮めようとしたことが始まりだったように、非難や謝罪によって、というかもっと単純に言えば騒ぎ立てることによってケガレを祓おうとする神事であり、マスコミはその祭祀の役割を果たしているに過ぎない、といえないかな?
http://scientificclub-run.net/index.php?UID=1242956580

そう言ってしまうのはあまりに危険なのでは?感染者を「依代」にして、彼らを「非難」することが「ケガレを祓おうとする神事」だなんて、そんなこと認めたら「依代」にされた側の人間はたまったもんじゃない。自分に何の過失も無いとばっちりで迫害を受けるんだぜ。
だからそんな「古典的宗教観」があると思うのなら、「そんなものは近代国家においては断じて認めてはならない!」と宣言しなければいかんでしょ。というか筆者はラノベ読みの方だから、「依代」とか「生贄」「狐つき」の類だと断定された人がどんな迫害を受けるのか、については想像できると思うんだけど。『狼と香辛料』とか、そのへんの認識が無いと多分読めないよね。