表明された「『放浪息子』への嫌悪感の正体」に対する嫌悪感の正体

タイトルはパロディなので、実際は「嫌悪感」ではなく「論に対する違和感」なのだけどね。言及したい記事はこれ。
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20110126/hourou
全体的な印象から言うと違和感の正体は、個人の感想や好みを一般化したり、他人もこう思ってるんじゃね?的な決めつけされても困るよなーってことと、いやそれ言い換えれば他の部分にも当てはまるブーメランだよ?ってことなんだけど。
例えば、

本当に問題で、今アニメに求められていることは、あそこで誰にもなんにも弄られもせず、そして誰とも友達にも恋人にもならず、独りでただ学校に行き、ぼっちで三年間を過ごすような、そういう奴のコンプレックスを何とかしてやることでしょう。

ですからアニメはそれを何とかするために、「願望を叶える力を持つ女子高生」やら「ゾンビが襲ってくる」やら「現実の女の子を攻略するよう天の使いが舞い降りる」とかそういうエキセントリックな設定を持ってきて、クソッタレな現実を「夢」の世界に改変してくれるわけです。

いやいやいや。「ぼっち」を救うことが「今アニメに求められていること」だなんて限定されても困るし。そこじゃない目的で観てる人だって山ほどいるし、「エキセントリックな設定」に見舞われる主人公って「ぼっち」ばかりじゃないでしょ。
あと、

放浪息子が仮にヒットしたとして、じゃあそれが現実に何か現実を―例えば本当に同性愛を嫌悪している人がその嫌悪をなくしたりするように―変えるか?断言しますが、それはないでしょう。

いやでもそれ、「エキセントリックな設定」のアニメは尚更そうじゃない?例えば現実に「願望を叶える力を持つ女子高生」とか「ゾンビ」とか「天の使い」とかを実現させる動きは起こらない。つかなんで放浪息子だけに「現実」を変える期待をするのか解らない。放浪息子が「社会的問題について考えている」なんて作り手の誰も断言してないでしょ多分。
あとこんな議論、どこに存在してるの?

「他人の服を勝手に着る」ことは、同性愛者だろうが異性愛者だろうがトランスジェンダーだろうが許されないことなはずです。なぜならそれは明白にその他人が持っているべきその服の管理権を侵害しているからです。例えそれが、その主人公にとっては「自分らしさ」を発露するための手段だったとしても、それが他人の権利を侵害するものだったら認められない。ごくごく当たり前のことです。ところが同性愛とかの問題になると、何故か「マイノリティが自分らしさを発露するのならば、それは絶対妨げてはならない」という議論が、一部ではなされている様に思えます。

それはソースをきちんと示してくれないと受け入れるわけにはいけない話。この筆者もまた、必要に応じて出典を示すという、文章を書くに当たっては「ごくごく当たり前のこと」を怠っているわけ。それをせずに放浪息子を擁護する人を暗に批判することこそ「他人の権利を侵害」している。
最後に。これは暴論に属する発言なので、非難しておく。

まぁ僕は一話をざっと見ただけですが、そんなにこの『放浪息子』の主人公が、一切傷つけてはならないようなきれいな子供には見えないんですね。

「きれいな子供」じゃなければ傷つけていいの?人のものを勝手に借りちゃうとか、そういうことだってするよ、子供って、普通。そういう事例があったら都度都度で叱ってあげればいいことで、「きれい」じゃない要素を持っているからといって、その子は傷つけられてもいいんだ、とはならない。
ついでに「(人のものを勝手に借りる)行為まで擁護してしまうってことにもつながっちゃうような気がしてならない」って、思い込みで人を批判するのもたいがいにしていただきたい。