伊集院光深夜の馬鹿力・2月23日分

出来る人と出来ない人は永久に分かり合えない

紙を四つに折って、切り開くと手裏剣の形になるような切り方が出来ない若手お笑いのコに驚いた伊集院さん。でも自らも、バスケの一番基本の、最初に練習させられるシュートが、体育の授業で何百回やっても一回も入らなかったことを思い出し、

(学校で)バスケのシュートができないって話するじゃん、そうするとすごく優しい人がいて、
「それはいくつかコツがあるから教えてあげるよ」
って言ってくれたりするじゃん。
「ホントに?だけど俺、ホントに出来ないぜ?」
「いやでもね、コツは2コだけなんだよ。だから放課後一緒にやろうよ」
「いいの?自分の練習は?」
「いいよ、お前が出来るようになったほうが戦力になるから」
って言った奴が、放課後その練習開始30分後にブチ切れてるじゃん。

これすごく分かる。いや教わるこっちもすげえ真剣にやってるのよ。でも出来ない、そんな状況が続くうちに、教えてる方は「お前ふざけてんだろ!」みたいなこと言いはじめるのね。こちとらマジメにやってるんだっつーの!そんで、

もうお前の言う「手首を柔らかくして、最後伸びたときは耳の後ろにヒジの内側が付く感じ」とかは何百篇も聞いた上でできないんだよ!

と言いたくなるという。実際「手首を柔らかく」する努力もしてるし、「耳の後ろにヒジの内側が付く感じ」も試してるわけ。にも関わらず「違う!」とか言われる。だからお前の言うとおりにしてるじゃん!なんで怒られなきゃいけねえんだよ!的な。
で、聞いてみると、「お前は手首が柔らかく使えてない」とか言い出すわけ。だからしてるじゃん!じゃあ柔らかくって具体的にどうよ?って聞くと、「こうだよ、こう!」つって手首をクイクイ動かしたりするんだけど、
そんなんで分かるわけねーだろ!
要するに出来る人ってのは、なんで自分が出来てるのかを分かってないのね。逆に、

「自分はこういうところが分からないからこれができないんだと思う」と説明できるにもかかわらず出来ない人ってのは、教えても絶対できないと思う。要するに、四つに折ったのを切るときになんで切り方が分からなくなっちゃうかっていうと、「元の図形を忘れちゃうんだよ」と言うとするじゃん。じゃあその人は図形を覚える努力をすればいい。でも努力をしても分からないからまだ切れてない。てことはもうそこに教えることは何もないじゃん。

そこで「元の図形を覚えておく方法」を提示できれば解決の可能性は復活するんだけど、大概それは無いね。知ってる側の人がそれをしないというか、たぶん出来ないのね。伊集院さんがホンジャマカの石塚さんたちとダンスする企画をしたときのこと。

石やん(ホンジャマカの石塚さん)のこと大好きだけど、分かり合えないと思ったのは、「ダンスって絶対動かない方に身体が動くような振り付けにはなってないから、身を任せてるといつの間にか踊れてるよ」って言うのね。

それも違うよねえ。実際にどっちにも身体を動かせないし、だいいち「自然」ってどういうこと?分からないじゃん。だから身体がフリーズしちゃうしかないし、とりあえず適当な方向に身体を動かすと「違う!」とか言われるし。気が付くと両足が絡まってコケた上に足がつったりするわけ。
とにかく、どうすれば出来るのか、を出来る人が説明できない、「ここまでは出来るけどここからが出来ない、どうすればいい?」という出来ない人の問いに答えられない、これが問題。

解決策は?

一方で伊集院さんは、テレビとかの現場中継における「状況説明」、これが「出来ない」と、若手のコによく相談されるらしいのね。で、そのとき答えているのはこの二つだとか。

1.大きい方から小さい方にしゃべる(例:駅名レベルの地名>ぐるり見渡した風景>そのうち何分の一かを切り取った風景>ひとつの建物>その中の一室)。
2.最初のうちは当たり前のことを言ってて、その風景から外れたものを後から言っていく。

なるほど、これはぼくとか聞くと分かりやすい。こういうふうに、平易かつ具体的な言葉で説明するのが一番確実だと思うわけ*1。でも、

こういう、ちゃんと明文化できる人はすごいよね。自分がなぜバスケのシュートが入るのか、そしてそれを出来ない奴にちゃんと言えるって人がいたら、相当聞きたいよね。でも大抵の場合ダメだよね。何分で何が出来るみたいな本買っても、大抵ダメだよね。

その通り。大抵ダメ。で、結局コミュニケーションの断絶が延々と続くみたいな。

じゃあどうすればいい?

とはいえ、「状況説明」のように、なんとか「明文化」に成功した例もあるのだから、出来ない側としては諦めずに求め続けるしかないのでは。キレられたりすることは覚悟の上で、勇気を出して聞き続けることしかないのでは。
まあ趣味の領域なら致命傷にはならないけど、仕事とか学校とかで「明文化」なしの分かる人だけ分かる状態は困るしねえ。万人が会得できるものを提供していかないと。だから就職にはコミュ力だとか人間力だとか言う人は、それらを具体的に「明文化」しなきゃダメなんだよね。また「明文化」をしないで企業がそれらを採用の基準に使うなら、それは差別につながるわけだ*2

3月9日追記

その後、教える側と教わる側の双方が気をつけると良い点を考えてまとめてみた。
教える側は、

  1. 決して怒らない
  2. 自分の説明の中に何か見落としている点、そこが分からないと出来ないという部分を飛ばしている点が無いかつねに注意する
  3. 「知ってて当たり前」のことなど無いことを肝に銘じ、「こんなことも分からないのか?」ということを言わないようにする
  4. 教わる側のどんな質問にも根気良く付き合い、どんな失敗も成功へのステップと捉え、許容する
  5. 相手が出来ないのは、自分の教え方が悪いのだという謙虚な気持ちを持ち、どう説明すれば相手が分かるかを必死になって考える
  6. 例外なく言葉で説明するよう努力する。「自然に身体が動く」「慣れれば出来る」は禁句。

教わる側は、

  1. 教わる際「ここまで分かった」をハッキリいう事で、教える側が教えやすいようにする
  2. 逆に分からないときは遠慮せずハッキリ言い、分かるまで聞く
  3. 出来ないときや違ったことをやっているときは教えてる側が指摘してくるはずなので、そのときに「どこが違う?」とハッキリ聞く
  4. 「これはこうする」という説明が分かりにくかったら「こうするにはどうするのか?」を聞き、それでも分からなかったらさらに食い下がる


こんな感じだろうか、とりあえず。

*1:あと伊集院つながりで、よく伊集院番組にも絡む鈴木順アナね。お父さんが昔カメラマンをやってて、「海と空の写真を撮るときは両者の比率を2対5で撮るんだ」と言ってたそうな。これも非常に分かりやすい。

*2:あるいは既得権を保ちたい人たちは、自分たちの立場を守りたいために、あえて人間力とかの詳細を明かさないのか?知らんけど。3月12追記。さらにそれらを「空気」とかいう言葉でごまかすのもNG。