交響詩篇エウレカセブン 31話(11月20日TBS)

どうやらコーラリアンが人間に対して攻撃を始めた模様。街は大惨事に見舞われる(いつもながら人が死ぬときの描写はハードである。ただ「人が殺されるというのはこんなに惨たらしいものなのだ」という教育的効果はあるかのかもしれないが)。

ゲッコーステイトの面々は、遠くから街を眺めて事態を把握する。が、タルホは街の人々を見捨てることを選んだ。ギジェットはそれに意義を差し挟むが、「甘え」であると一蹴される。

「誰かを救うために、誰かを見捨てる」
あるいは
「目の前の誰かを見捨てて、より多数の誰かを救う」
ありがちなジレンマだが、これを直截視聴者に突きつけるアニメ作品というのは珍しいだろう。けれど、現実社会(ことに国際紛争の場)ではよく行われていることだ。たとえば世界的な戦争を防ぐために地域紛争に介入するケース。あるいは一国を独裁者から救うために軍事介入をするケース(もちろんこれらは介入する側の勝手な言い訳な場合もある)。

これはわれわれも常日頃やっていることではないだろうか。為政者を選挙で選び、選ばれた者は誰を救って誰を見捨てるかを選択する。戦後60年戦争とは無縁に思える日本人だって、潜在的には常にその選択を繰り返してきた。人を殺すことに臆病だったレントンもまた、ゲッコーステイトに自分がいることを選び取った時点で殺し合いのゲームに参加していたことになる。とすれば彼こそは、日本という国そのもののメタファーだったのだろうか。

と、この国の「平和ボケ」を嘆く文章が書けてしまうのもまた罠であるかもしれない。何がいけなくて、何が正しいのか。何が平和で、何が戦争なのか。